塗屋の物つくりの心!!中華包丁をローラーに持ち替えた『調理師免許』を武器にした塗屋の真実!!①
ちょっと一言
私は福島の郡山にて産声をあげました。
そして幼少期は東京の江戸川区にて親の転勤の事情で過ごし小学生から、また転勤にて杜の都仙台に住み始めることになりました。
私の母方の叔父は東京で大工の棟梁をしておりました。
私が物心つく前に他界してしまいハッキリとした思い出は少ないですが、古い貸家の庭にブランコを作ってくれて、そのブランコで遊んでいた思い出だけは何故か記憶に残っています。
父の叔父は福島で電気工事店をしておりました。
小さい頃は現場に連れて行ってもらって叔父が電信柱を建てたり電信柱から電線を引っ張って電気の工事をしたりしている姿を子供心にすごいなーと見ていた記憶があります。
子供の私の特技は、おもちゃを分解するのが得意でした。
しかし元どおりには直せませんでした。なぜか部品が足りなくなるからです。
今、考えると建築には向かない子供のようだったと思います。
今はどちらの叔父も他界しているので私のいまの仕事を報告するのは気持ちの中と墓参りの時だけになりました。
つづく。
そして幼少期は東京の江戸川区にて親の転勤の事情で過ごし小学生から、また転勤にて杜の都仙台に住み始めることになりました。
私の母方の叔父は東京で大工の棟梁をしておりました。
私が物心つく前に他界してしまいハッキリとした思い出は少ないですが、古い貸家の庭にブランコを作ってくれて、そのブランコで遊んでいた思い出だけは何故か記憶に残っています。
父の叔父は福島で電気工事店をしておりました。
小さい頃は現場に連れて行ってもらって叔父が電信柱を建てたり電信柱から電線を引っ張って電気の工事をしたりしている姿を子供心にすごいなーと見ていた記憶があります。
子供の私の特技は、おもちゃを分解するのが得意でした。
しかし元どおりには直せませんでした。なぜか部品が足りなくなるからです。
今、考えると建築には向かない子供のようだったと思います。
今はどちらの叔父も他界しているので私のいまの仕事を報告するのは気持ちの中と墓参りの時だけになりました。
つづく。